三成が呼ばれたのは病床についた半兵衛の部屋であった。
何故特に関わりを持たぬ自分が呼びつけられたのかと三成は疑問に思いながら目の前に横たわる人を見下ろす。
障子から滲む白い光が照らす室内。
中央に敷かれた布団も、そこに納まる小柄な半兵衛の肌までもが病的に白い。
その中でこちらをじっと見上げる黒い瞳だけが、鮮やかに輝いているように見えた。
「御用とは」
しばらくの静寂の後、三成は口を開く。内心の動揺を隠そうとしたため、逆に不自然に平坦な声が出た。
それを見透かしたように半兵衛は微笑んで、布団から出した白く細い手で手招く。
「ちょっとお使いを、頼もうと思って」
久しぶりに聞いた半兵衛の声は、僅かに掠れて呼吸のように儚い音だった。
それを一言も聞き逃してはいけないような気がして、三成は更に傍に近づく。
同時に呼吸に混じる荒れた音が聞こえてきて、目前の体を蝕む病の重さを、じわりと感じ取った。
半兵衛から差し出された手を包み込むように両手で受け止める。
手のひらに落とされたのは、見覚えのある赤い珠のついた首飾りであった。
三成は思わず半兵衛の首元に視線を送る。
半兵衛の戦装束を見なくなって久しい、それでも首元を彩っていた紅い勾玉は鮮明に覚えていた。
使い、ということは、これを誰かに渡せということなのだろう。
しかし三成を経由して渡さなければならない相手、というのが、三成には分からない。
「それを、黒田官兵衛に渡して欲しい」
「…いつでも直接、手渡せましょう」
官兵衛は暇さえあればこの部屋を訪れている。
誰もわざわざ口に出しはしないが、誰もが知っていることだった。
困惑していると半兵衛が吐息のように笑う。悪戯気に細められた目に懐かしさを感じた。
「いつか、貴方達が袂を別つ時がくる。その時に渡して」
「まさか」
予言のように紡がれた言葉に、思わず声が大きくなる。
探るように半兵衛の瞳を覗き込むと、深く澄んだ黒が見据えていた。
「三成がそう感じる瞬間が、必ず来る。ずっと先のことだけれど」
「…未来でも、見ておられるのですか」
「ああ……そうだね、そうかもしれない」
確信に満ちた嬉しそうな顔で半兵衛は断言して、何かに思いを馳せる様に目を閉じた。
三成はそれが戯言の類で無いのだと、複雑な胸の内で納得する。その部屋に納得させられるだけの、妙な雰囲気があったのだ。
「これはね、三成。死にゆく俺の、酷い、とても酷い我侭なんだ」
「遺品を、渡す事がですか」
半兵衛は緩く否定を表す。先までと一変して切なげだった。
おかしなことに、その顔は今までのどの表情よりも、人らしいと三成は感じた。
そうして半兵衛の口にした呟きは胸に苦しいほど、重い願いだった。
秀吉が死んだ。
家康が動き出し、三成の周囲は虫でも蠢くように変りつつある。
三成が陰鬱とした気持ちで自室に篭っていると、部屋の隅に埃を被った小箱があるのに気付いた。
覚えの無いその箱、ずっと部屋にあったはずのそれは、いつも意識の外にあった。
しかしなんとなく今、それを解き放つ必要がある気がして、そっと手に取る。
薄い埃を落とし、丁重に包まれていたそれを開けた。
紅い勾玉の首飾り。
三成は過去に自身が課せられていた任を思い出した。
あの時、彼の人は何と言ってこれを預けてくれたのだろう。
記憶は酷く拙いものだったが、一つ重要な事は確かに思い出した。
おそらく、渡すべき時が来たのだ。
この未来を、半兵衛はどのような思いで見透かしたのだろうか。
勾玉は以前と変らぬ、鮮やかな輝きを放っていた。
砂埃と火薬、死の臭いに満ちた戦場を眺める。
清正達と家康側についた官兵衛は、この場に姿を見せなかった。
「左近、頼みがある」
銃撃を受けて治療を受けている左近の元へ歩み寄る。
関が原、この戦況は火を見るより明らか、荒れている陣の中で、三成の声は似合わぬほど穏やかだった。
その声音に何かを察したのだろう。軽口を叩こうと笑っていた左近の表情が、真剣なものになる。
「清正達を、助けに行ってくれ」
「…殿?」
三成の不器用な面も含め、いかなる時でも真意を察してきた左近が訝しげな顔をする。
あの時の半兵衛もこんな気持ちだったのだろうかと思いながら、三成は笑った。
死に寄り添って見て、初めて分かる事があるのだと知った。
「それとこれを。頼まれていたのだが、渡す機会はついに来なかったな」
「なんですか、これ」
「かの天才軍師、竹中半兵衛の遺品だ。こうなった時、黒田官兵衛に渡すようにと、生前に託っていた」
布に包んだ首飾りを、血泥と傷に塗れた大きな手に握らせる。
お前が渡してくれ、と三成が言うと、全てを理解したのだろう、左近は唖然としてから必死の形相になった。
「あんたが死んだら、俺は…!」
「無論、ただで死ぬ心算は無い。だが…左近、頼む」
重傷でそれでも立ち上がってくる左近を制して、三成は言い聞かせるように言う。
あまりにも左近が死にそうな表情で睨みつけてくるから、珍しく三成は困ったように微笑んだ。
「今なら俺にも分かる。これは酷く身勝手で、非道な……最期の我侭というものだ」
三成は願う気持ちで言葉を口にした。
それは奇しくも、殆ど覚えていなかったはずの、半兵衛の言葉と同じものであった。
大阪城を見上げる。
官兵衛はもう間近に見える泰平に想いを馳せた。
白く霞がかったその理想郷は、ただぼんやりと胸の奥にある。
何故それを、これほどまでに求めていたのだろうか。
突き動かされるままに今がある。あの頃のまま、それは変わりないはずであった。
「やっと見つけましたよ…黒田官兵衛…!」
「…関が原の亡霊か」
声に振り返ると、人の血肉に塗れた鬼が立っていた。
関が原でその姿を見たものが、心を病むほどに恐ろしかったとされるその姿を、官兵衛は表情を変えることなく見据えた。
思えばずっと、官兵衛の心は靄の中にある。
世はずっと色褪せていて、今目の前で赤黒く殺意を溢れさせている男すら、夢幻のように現実感が無かった。
「アンタに、預かりもんです。殿から…この戦と共に任された」
左近が乱雑ともとれる動作で懐から布の包みを取り出す。
そのまま投げて寄越された血塗れのそれを、官兵衛はなんとなく受け取った。
手の上で包みが解ける。
晒されたそれを見て、官兵衛は警戒も、息すら忘れて見入った。
「竹中半兵衛が、今の黒田官兵衛に渡せと言ってたらしいんでね」
名を聞いて、溢れるように記憶が蘇る。声が耳に届く。天井を指差す細い手が見えた気がした。
「忘れないで」
いつもの微笑みだ。そうして、最期に半兵衛は厄介な呪いをかけた。
手の中にある首飾り。見覚えのあるそれは記憶のものと全く違わない。
「酷い話だ。自分はさっさと逝っちまうくせに、こんな重いものを遺していくんだから」
鬼は酷い顔で笑った。それは泣き顔にも怒り顔にも見える。
官兵衛は初めて鬼の顔を認識した。夢ではなく、現実のものとして。
「…同感だ。いらぬことを、思い出してしまった」
夢から醒めたような顔をして、官兵衛は首飾りを懐にしまう。
左近はそれを見届けて、太刀を構えた。同じく、官兵衛も翠玉をかざす。
他者が見れば、その時二人の双眸には狂気が宿ったように見えただろう。
決着は、早々に着いた。
官兵衛に辿りついたとき、既に左近は満身創痍となっていたのだ。
数度切り結んだ後、左近は崩れるように地に伏した。
周囲には血溜まりがいくつか出来ている。
もう相手は戦えぬと判断した官兵衛は、武装を解いて倒れた左近の顔を覗き込んだ。
最早虚ろになった瞳に空の暗雲を映しながら、左近が笑う。
「まったく…本当に…面倒な我侭だった…」
官兵衛は止めをさすことなく、黙ってうわ言のような言葉を聞いていた。
「殿…いわれた、とおり…さいごまで……」
次第に声は掠れて、消えていった。
官兵衛は事切れた左近の目を丁重に閉じる。らしくない行動は、同じ苦しみを抱いたものとしての敬意と同情かもしれなかった。
清正は渾身の力で切り伏せた相手を見やる。
そして、その手に大切そうに握られていたものに目を瞠った。
ひとのこころ。
奴も確かに持っていた。清正は驚き、僅かに後悔した。
清正にとっては遥か過去、自分の知らないところに、官兵衛の心は置いてあったのだ。
その手にある半兵衛の首飾りのように、官兵衛は半兵衛の想いと共に死んだのだろうかと清正は思う。
今まで死者のために走っていたのだとしたら、大馬鹿だ。
官兵衛も、左近も、そして清正自身も。
皆、共にいたかった。いきたかった。その考えが痛いほどに分かった。
儚い記憶に縋るのは苦しくて辛く切なくて、それでもひたすらに掴まなければと。
「ああ…やっと、終わる」
薄れゆく意識の中、口惜しさよりも追える喜びに、清正は笑んだ。
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