「親方様が、黒田官兵衛の策を突破しました!」
こちらに届いた報せを聞いて、鍔迫り合いをしていた相手が一瞬だけ肩を震わせた。
その機に押し負かしてやろうと力を込めるが、すぐに集中を此方に切り替えられる。
そして目の前の顔は何事も無かったかのように無表情になった。動揺は一切消えている。
しかし、先ほどまでとは打って変わり、容赦の無い攻撃でこちらの太刀を跳ね除け、
息を吐く暇も与えず、胆の冷えるような無駄の無い連撃が繰り出された。
穏やかだった丸い瞳が、武士の眼差しになっている。
それに気づいて、左近は突然冷水を浴びたような心地になった。
咄嗟に後ろに飛びのくと、死角から羅針盤の針が飛来し、先ほどまで立っていた場所に深く突き立った。
一つだけ外された羅針盤の刃に気づかなかったのは、先ほどまで戦っていた相手が冷酷な手段を取れる人間に見えなかったからだ。
「へぇ、感が良いね」
その無表情から紡ぎだされるのは、無理に作ったような、あどけない音の言葉。
左近は自分の背に、嫌な汗が伝うのを感じる。
今まで戦っていたのは、竹中半兵衛という幼さを残した言動の軍師だった。
どこか優しげな風貌に、その犠牲を最小にする戦い方。
左近に話しかける口調も戦中だというのに楽しげで、やりにくい相手だと思ったのは遠くない。
それが、黒田官兵衛の策が破られたことで、一瞬の動揺を見せた。
今までの伝令によれば、その策は策士の命をかけた足止めだったらしい。
豹変の要因となったであろうは、黒田官兵衛の死。
しかし、一人の人間の死で、ここまで人が変われるものなのか。
左近は理解できない現状に唇を噛んだ。
その場だけ静かなる水面のような、戦場に相応しくない雰囲気が張り詰める。
冷たく澄まされた表情は、先ほどまで楽しげに笑っていた人間とは別の生き物のようにすら感じた。
その、底知れぬ知謀を秘めた瞳が、こちらを見据える。
視線から嫌に肌に感じるのは、神算に組み込まれる無力な駒の心地、
左近は、彼があどけない子供のままで居る内に倒さなかったことを心底で後悔した。
「ごめんね。これは只の八つ当たりだけど…死んでくれる?」
低く紡がれた言葉と同時に、がしゃ、とからくりの動作音が聞こえた。
大技で一帯を吹き飛ばす算段なのだろう。
それに合わせて向こうの兵士達が弓を構えている。背を見せたら射られるということか。
周囲に居た味方の兵士たちは、恐れ戦いて震えている。死ぬ物狂いで敗走するものも多数見えた。
「…黒田官兵衛ってのは、アンタにとって何だ?」
引きつる喉から何とか時間稼ぎを紡ぐと、竹中半兵衛の瞳が僅かに細められる。
軍師特有の、策を完成させた喜色を隠さんばかりの、悲色が目に映っていた。
「あれは、絆。俺が今際の際まで繋いで居たかったもの」
遠くを想う切ない声で告げられた言葉に、左近は眉を顰めた。
また、あの言葉だ。
信玄も言っていた、命を燃やさせる『絆』とは何なのか。左近は未だ理解できない。
「絆を持たずに死に逝く貴方が、少し羨ましいかもね」
「ちっ…勝手に殺さんでくださいよ」
すぐに太刀を構えるが、横からなぎ倒すように飛んできた羅針盤に吹き飛ばされる。
炎を纏った糸が肉を焼きながら切り裂き、遠心力を持って襲い掛かった。
二撃目は耐え切れない。左近は、死を覚悟した。
すると、激しい風の音が耳を掠める。
次の衝撃は、来なかった。
「派手にやられたのう、左近」
背後からの声に安堵する。信玄公が間に合ったのだ。
振り返ると、馬に乗った武田信玄の姿があった。得意の風で羅針盤を吹き飛ばしたようだ。
「もうでてきちゃったんだ?流石。…貴方のことは尊敬するけど」
空中に滞空できる羅針盤で吹き飛ばされた衝撃を緩和したらしく、
軽やかに地に降り立って、半兵衛は小首をかしげてこちらを見た。
その動作は激情を感じさせないが、瞳からは剣呑な視線が放たれている。
「…官兵衛殿の仇…許さない」
一段低い声音で言い、同時に羅針盤を放つ。
それを見越していたのか、信玄は馬から下りて避け、左近を突き飛ばした。
「左近には、ちと荷が重いかな」
伸ばされた羅針盤の糸から炎が走り、そちらに気を取られていると信玄が切り結ぶ音がした。
半兵衛が羅針盤の針だけで接近戦をけしかけたのだ。先手は囮。
だが、飛ばされた羅針盤が弧を描いて持ち主の下へ旋回する。向かうは信玄の背後。
左近が飛び出そうとするが、信玄は先に風でその攻撃をを防いだ。
そして数度、巧妙な攻防を繰り返したが、ふと呟かれた信玄の一言で勝敗は決した。
「黒田官兵衛なんだがね、生きたまま捕縛してあるよ」
その言葉に半兵衛は目を見開き、攻撃が緩む。
それを見逃さずに信玄がすばやく攻撃を叩き込み、半兵衛を気絶させた。
「ほい。両兵衛捕らえたり…ってね」
倒れこんだ小柄な体を抱え、左近に笑ってみせる。
その笑みはしてやったりという顔で、左近も思わず笑ってしまった。
「で?俺たちを捕らえてどうするつもりですか?」
「…」
先ほど左近を殺しにかかっていたのが信じられないほどに穏やかな声音で、半兵衛は一声を発した。
縄で捕らえられているというのに楽しげに微笑む態度は、胆が据わっているとしか思えない。
隣で憮然と正座しているのは、信玄を誘い出して閉じ込めたという黒田官兵衛だ。
隣で駆け引きをしたがっている半兵衛に対し、こちらは頑な過ぎるほどに沈黙を守り続けている。
「もー…答えてくれても良くない?信長は負けちゃったみたいだし、俺たち用済みのはずなんだけど」
何も答えずに大らかに笑う信玄に、半兵衛は頬を膨らめて拗ねたように唇と尖らせた。
確かに、この二人は単なる軍師だ。実際には豊臣秀吉の指揮下に居たようだし、特に捕虜としての価値は無い。
秀吉相手に交渉することも無いし、どういった意図で捕らえたのか左近にも分からなかった。
「痛っ、縄痛いし!逃げないから緩めてよー。信玄公ってばー!」
「…卿は捕虜らしくできぬのか」
全くだ。耐えかねたように口を開く官兵衛に、心中で同意する。
いくら見目が女子供のようであっても、敵を欺くためであっても、この振る舞いは如何なものだろう。
「なに。ただ殺すには惜しいと思っただけじゃよ?」
「ふーん?で、本当は?」
「ううむ、疑い深いのう…」
信玄はからかうように言葉を発し、また笑う。
半兵衛はそれに不満そうな顔で文句を言った。縄がきついだの、腹が減っただの、些細な文句だ。
ふと、官兵衛がため息を吐く。
「信玄公、この者は肺を患っている。生かす気があるのならば、縄を手足に留めてはもらえぬか」
一度目線を半兵衛に向け、そのまま可能な限り頭を下げた。
その場に居た全てのものが驚きに目を見開いた。
片割れの半兵衛ですら、口を開けて官兵衛を凝視しているのだから、これは相当な光景だと分かる。
信玄は「いいよ」と微笑んで指示を出し、半兵衛の胸辺りに巻かれていた縄が外された。
「…官兵衛殿、らしくない事続けてると、雹が降るよ」
息が楽になったのか、噛み付くような文句はなくなったが、半兵衛は釈然としない顔である。
そして信玄から向き直り、隣の官兵衛を睨み上げた。
「病人に鞭打つ気は無い。卿は今までどおり、気の赴くままに昼寝でもしていれば良かろう」
「またそうやって…今回の戦だって、直前に変えたでしょ?…俺の気持ちも考えてくれる!?」
強い語気で詰め寄る様子に、その間にただならぬ物があるのだと悟る。
しかし官兵衛は表情を変えず、ただ淡々と半兵衛を窘めた。
元々感情を面に出す御仁には見えないが、それでも更に崩さないように己を保っているようにも見える。
「…卿と同じことをしたまでだ」
言い聞かせるような声には、重さがあった。
それに半兵衛が黙り、辛そうに顔を顰める。
と、信玄が手で合図をした。
「さて、こっちが整うまで、牢に居てもらおうかね。二人一緒に入れとくから、水入らずで話すといいよ」
兵士達が連行する。その間、あれだけ煩かった半兵衛は俯いたままであった。
左近はその後を、無粋だと思いつつも着いていく。
『あれは、絆。俺が今際の際まで繋いで居たかったもの』
あの切ない想いを乗せて語られた、絆の姿を見たかったのだ。
牢の空気穴は、反響した音が外まで通るようになっている。
左近はそこの近くに座り、じっと聞き耳を立てていた。
しばらく沈黙が続いたが、ふと、半兵衛の声が聞こえる。
「あれってさ、官兵衛殿の気持ちを考えろってこと…だよね」
「…」
官兵衛は何も言わない。
それでも半兵衛は言葉を続ける。
「そんなの…言ってくれなきゃ分からないよ。俺、今余裕ないし…」
「…そうか」
言葉少なに官兵衛は相槌をうつ。
読み取れる感情は僅かだが、声音から風評や外見のような冷酷な印象は受けない。
「官兵衛殿の策を知ったとき、策が破れたって知らせを受けたとき、またこうして出会えた今」
半兵衛の高めの声が響く。含まれるのは複雑な心中の音だろう。
「官兵衛殿がまだ、生きてる。…ああ、もう本当に…本当に…!」
激しい感情がこもり始めて、声が掠れ、次第にくぐもって消えていった。
口を覆ったのか、あるいは官兵衛にしがみ付いたのか。
泣き出しそうな、叫ぶような、悲痛な声。
これほど想う心を、左近は知らない。
歯がゆさと切なさが沸き起こり、やり場の無い感情に一つため息を吐いた。
音を立てずに、左近は立ち上がる。
ふと振り返って牢を見ると、見張りが居ない。
人払いのつもりなのか、あのまま逃がすつもりなのか。
どちらにせよ、あの二人を再び会わせること自体に意味があった気がして、左近はそのまま場を後にした。
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