「だから、言ったでしょ…やりすぎだって」
薄暗い部屋の中、寝台の上から苦しげに、呆れを含んだ声があがった。
その部屋に、人影は二つのみである。
「…火種は、消さねばならぬ。泰平の世を築くために、あれらは必要であった」
「……そんな官兵衛殿の頑なな純粋さ、俺は好きだけどね。ああ、ほら…また血の穢れが」
半兵衛は幾つも痣の浮いた白い顔に、消え入りそうなほど弱弱しい微笑みを作った。
しかしそれは静寂を裂いた喧騒と、漂ってきた生臭い気配に、すぐ苦痛の表情に変わる。
「俺がもう少し強かったら、失道も遅らせられたかな…」
「いずれこうなると解っていた。遅くとも早くとも、変わりはせぬ」
ただ感情の乗らぬ声音で、官兵衛は寝台に横たわる半兵衛を見下ろして答え続ける。
その顔は一見して無表情であったが、その半身たる麒麟の半兵衛には、官兵衛の眼差しにある一筋の決意が見えていた。
それは初めて出会った頃から変わらぬ、王の光を秘めた決意。
いま斃れようとしている、彼は間違いなく、半兵衛だけの王であった。
「あーあ。俺が死んだら、官兵衛殿は一人ぼっちで逝くことになる…それだけが、心残りだよ」
ため息交じりで諦めを含んだ声を出し、半兵衛はゆっくりと目を閉じる。
罪の病に侵された体は、起きて話す事すら許してはくれない。
「眠れ。もう邪魔はせぬ…」
遠くで争う音が聞こえる。直にこの部屋に、兵士達が押し入ってくるだろう。
それを気にした様子も無い、いつも通りの低い声が穏やかに響く。
その声だけで、半兵衛は穢れも血の臭いも忘れ、誘われるままに眠りに落ちた。
血の臭気が酷い。
半兵衛は息苦しさに喘ぎながら、ゆっくりと目を覚ました。
血の穢れと、民の怨嗟が満ちている。
ふと、心に冷たいものが落とされた心地になった。
身の毛のよだつような恐怖。
半兵衛は咄嗟に女怪を呼ぼうとし、彼女が前王に殺されて久しいと思い出した。
身を護るすべも無い黒麒麟。そんな麒麟でも、官兵衛は当たり前のように「必要だ」と、無愛想に言い放った。
そう、その官兵衛は。自身の王は、何処か。
焦燥に駆られ、起き上がれぬはずの体で飛び起きる。
そして、自身の体を見て、半兵衛は思わず小さな悲鳴を上げた。
失道の病が、消え失せている。
心音が煩いくらいに耳内を騒がせる。
「おれの、おう、は…どこだ……っ!!」
血を吐くような痛みを感じる喉で、半兵衛は叫んだ。
周囲に人の気配がある。それは逆賊かもしれない。しかし叫ばずには居られなかった。
狂ったように寝台の上で足掻いて、喚き散らす。
半兵衛の明晰な頭では、既に最悪の状況を理解していた。
それでも求めずにいられぬ激情に、心を焼かれるような焦燥があふれ出す。
「かんべえどの…どこ!?…かんべえどのっ!!」
そのまま寝台から滑り落ち、まだ立てぬ足で床を這う。
血の臭いのする戸に向かおうとしたとき、その扉が開け放たれた。
それは、狂おしいほど求めた人影では、ない。
「…台輔、お目覚めかな?」
「っ…………元就公、生きてたんだね」
穏やかな声に、半兵衛は戸の向こう、その先を睨みつけていた視線を、やっと元就へ向けた。
叫びすぎたために掠れた声で、それでも平常の音程を装う姿に、元就は痛ましいと言わんばかりに眉を寄せる。
「台輔ほどの者なら、もう気づいているはずだ。王の…官兵衛の、選択を」
「うるさい!!」
宥めるように続ける言葉を、半兵衛は渾身の怒声で掻き消した。
そして細くなり、長く病魔に蝕まれていた体で、血に塗れるのも気にせず元就に掴みかかる。
「麒麟には、王の光が見えるのだろう?なら、」
「官兵衛殿をどこに隠したの!?俺の王、たった一人、あの人だけが俺の…っ!」
声は次第に震え、狂気を秘めていた瞳が次第に虚ろになっていく。
半兵衛は、狂えるほど容易に作られていない己の精神を怨んだ。
光が、見えない。
あの、王の輝きが、どこにも。
言葉にならぬ呻き声を上げて、半兵衛は膝から崩れ落ちた。
瞳から止め処なく流れ落ちる雫には、血色が混じる。
「官兵衛から、鸞を預かっている……私を仮王に、直に仮朝が立つ。君は次の王を選ぶようにと…王の最期のご意向だ」
色鮮やかな鳥が半兵衛の傍に舞い降りる。
銀を食べるその高価な鳥は、昔、節約家の官兵衛に無理に強請って、渋々であったが買い与えられた贈り物であった。
『この鳥を使えば、どんなに遠くに居ても、俺の声が官兵衛殿に届くんだよ。ね、一羽くらい持っておいても、損はないよ!』
『麒麟のくせに、卿は民の血税で無駄遣いをするのか』
『またそんなこと言って…。官兵衛殿は使わなすぎ!それに、必死に働いてる自分の麒麟を、少しくらい労ってくれても良いんじゃない?』
『威張るのなら無償で働いてからにするのだな。………卿に三つの用を任せる。それを処理できるならば、考えよう』
『え、ほんと?ふふっ…頑張っちゃうよ?』
淡い穏やかな記憶が浮かび、半兵衛のささくれ立った思考を、ゆるく、優しく撫でた。
半兵衛は涙をそのままに、まだ震える手を伸ばし、鸞に触れる。
鸞は小さなくちばしを何度か開ける。そうしてから受け取っていた声の復唱を始めた。
「我が半身であった、半兵衛にこの言を遺す」
目を閉じる直前に聞いたままの、低く穏やかな声であった。
一通り泣き叫んだ後、半兵衛は儚げな笑顔を見せた。
元就はそれを見て遣る瀬無いといった表情で頭を乱暴に掻き、ため息をつく。
「…私としては、次の王の登極のために君に残ってもらいたいんだが」
「元就公…分かってるくせに。民を二度も失望させた…暗君と暴君を選んだ麒麟だよ。…官兵衛殿は決して私欲のための暴君ではなかったけれど、民はそうは思わない。でしょ?」
先ほどまで泣きじゃくっていたとは思えぬほど明瞭に答え、半兵衛は澄んだ瞳で元就を見上げた。
言葉には病気に侵される前に宰輔として活躍していた頃の、凛とした知性が見える。
「それに…俺は、もう選ばない。官兵衛殿以上の王なんて、居ないよ」
「………分かった。最期に、言い残すことはあるかい?」
血に濡れた剣を元就が取り出したが、半兵衛は物怖じせずに微笑んだ。
「そうだなあ……………俺の死体、残るはずだから…一緒に埋めて欲しいな」
「ああ、必ず」
「………ありがとう」
PR