「では、所用があるので私は失礼する」
「え、もう行っちゃうの?官兵衛殿」
話を一区切り付けて、きちりと正座していた官兵衛が立ち上がった。
それに半兵衛が驚いて、残念そうな声を上げる。
こちらは足を崩して寛いでいて、まだ居座り足りないといった表情だ。
「卿はまだ話すことがあるのだろう。私が用を済ませて戻るまで、ここに居るがいい」
「じゃあ、また後でね、官兵衛。半兵衛は責任を持って、私が預かっておくよ」
心得た、と頷いて、元就が朗らかに笑って手を振る。
しかしその言葉を聞いて、半兵衛は白い頬を餅のように膨らませた。
「預かっとく、って子供じゃないんだからさー。あ、ちょっとまって!」
半兵衛は早々に立ち去ろうとする官兵衛の服の裾を引いて留め、不安を滲ませた声で言う。
「…官兵衛殿、早く帰ってきてね」
置いていかれるのは本意ではないが、元就との語らいも重要である、と判断したのだろう。
しかし、そのあまりに渋々置いていかれるといった様子に、隣で見ていた元就は本当に母に留守を頼まれた童のようだと内心で微笑ましく思った。
「手間取らなければ、一刻ほどで戻る。…いい加減放さぬか、半兵衛」
「はいはい、いってらっしゃい。もう…官兵衛殿も少しは別れを惜しんでよね」
「…たかが一刻で何を惜しめというのだ」
官兵衛は半兵衛の様子に呆れを含んだ口調で諭し、やっと手が放されると、そのまま素っ気無く部屋を後にした。
いまだ名残惜しそうに戸口を見つめる半兵衛に、元就は珍しく声を上げて笑う。
「本当に、仲が良くて羨ましいね、君たちは」
「官兵衛殿がもっと素直になってくれたら、もっと良い方向にいきそうなんですけど」
不貞腐れた顔でため息をつく半兵衛に、元就は茶請けの洋菓子を勧める。
しかし意識の先はまだ官兵衛に向いているらしく、手をつけるのも上の空といった感である。
元就はやれやれと苦笑した。知り合いの子供を預けられたような心地だ。
「いつも関心が強い傾向はあったけど…今日はそこまで気にするなんて、珍しいね」
普段よりも手ごわい感触に、元就は首を傾げた。
以前であったなら、不満顔にはなるものの、囲碁でも出せばすぐに機嫌を直した。
「あれ?そう見えます?…これといって自覚は無かったんだけど」
「うん、なにか心配事かな?」
半兵衛は少し驚いた顔をして数回瞬き、眉を寄せて思案する。本当に自覚がなかったらしい。
無意識に何か思うところでもあったのか、その原因に元就は僅かな好奇心を持った。
しばらく半兵衛が記憶をたどるような時間を置いて、唐突に声を上げる。
「今日、信長に会ったからかも」
今度は元就が驚き、瞼を瞬かせた。
話によれば二人は最初、信長に仕官したという説もあるので、面会するのは妙な話でもない。
ただ、半兵衛の嫌そうな顔と苦々しい声、滲み出た嫌悪に驚いたのだ。
「それで何故」
「あの人のこと元々苦手だったんだけど、最近何か嫌な気配なんですよねー」
言い表せぬほど感覚的なことなのだと説明する半兵衛に、元就は興味深そうに聞き入っていた。
そして考えるように目を閉じて、ほんの僅かな時間で喜色を滲ませた瞳を露にした。
「もしかして、信長が君たちを手元に戻したがっている…?」
「さすが、話が早くて助かるなぁ。しかも、どっちか一人を」
思いついたままに元就が呟くと、半兵衛が大きく頷いて肯定する。
そして困ったように眉を寄せ、物憂げなため息を吐いた。
半兵衛は確信を持って言っているわけではないのだろうが、
これほど意図せず不安を感じ取っているのならその話は十分に在り得る。
「それは…両兵衛としては嬉しくないだろう」
「確定ってわけでもないけど、それを匂わされちゃあね…だから、今日は何だか落ち着かないのかも」
言葉にならぬ気の抜けたうめき声を上げて、半兵衛は畳に転がった。
力なく突っ伏しながら、置いてあった洋菓子に手を伸ばして、行儀悪く摘み始める。
元就もそれに苦笑しつつ、洋菓子に手を伸ばした。変わった甘味がする。
織田について、今の毛利は何も手出しができない状態だ。
それは目の前のあどけない少年にも見える天才軍師の采配によるもので、
その天下に影響するだけの才が恐ろしくもあり、大昔の自身と重なりあう部分が垣間見えて危うくもある。
だが、彼には片割れが居る。
策を分かち合い、才を互いに認め合うだけの、対等の存在。
この二人ならば昔の自分のようにはならない、と元就は思っている。
しかし、もしこの二人が引き離される事態があるとすれば…。
元就は目を細めた。
目先で足を揺らしながら寝転がる半兵衛は、やはりどこか思い詰めた空気を纏う。
「半兵衛」
「ん、なんですか…?」
そのまま仰向けに転がって、丸く大きめの黒い瞳がこちらを見上げた。
「彼の手を、離してはいけないよ」
元就はあまりに唐突過ぎたと言葉を放ってから後悔したが、
半兵衛はその言葉の意味を全て受け取ったらしく、顔つきが真剣なものへと変わった。
そしてゆるく起き上がり、元就を振り返って薄く笑う。それは酷く確信的なものに見えた。
その姿はもう、少年のようだとは言えない。
「心配しなくても……死んでも、離してあげない心算ですよ」
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