「そういえば、二人は許婚の間柄だったんだねぇ」
穏やかな昼下がり、優しげな声で気候の話でもするかのように元就は言った。
それに半兵衛は少し驚いた表情をして、何度か瞬きをし、
官兵衛は表情こそ変えなかったものの、手にしていた書を手から落としそうになった。
「え?何の話?」
半兵衛は興味津々といった声音で転がっていた体を起こす。
黙ったままの官兵衛も僅かに視線を投げかけ、その根拠となる話題を待っているようだ。
元就はその様子に「たいした話ではないんだけど…」と呟いて苦笑いし、頬を指先でかく。
「少し前に、毛利軍内でこんな噂が立ってね」
なんでも、有岡城にいる許婚に会いたいと、輸送船に忍び込んでいた娘が居たので、
兵士達がその健気さに胸を打たれて、兵糧の中に隠して送ってやったのだという。
だが、その話を聞いた者がよくよく調べてみるとそれに該当する立場の姫君は存在せず、
騙されて女忍でも間違って送ってしまったのではと慌てた者達が、元就のところに相談に来たのだ。
頼られた元就直々に情報収集をしてみたが、その日城で起こったのは侵入者の虚報騒ぎだけ。
同時に、土牢の門番が見知らぬ身なりの整った佳人にどやされて、一度持ち場を離れたとの報告もあった。
「さて、この時土牢に囚われていた人物は、官兵衛一人だ」
「虚報騒ぎの手口から見て、犯人は空を飛ぶ事ができる」
半兵衛が面白そうに口を挟む。
「そう。そして女装をしても疑われる事のない容姿と、そつなく脱出して見せた知略の持ち主といえば」
説明し終えた元就は、満足げに笑んだ。
そして「つまり…」と結につなぐ。
「明日をも知れぬ身の官兵衛に、命がけで許婚の半兵衛が会いに行ったと言う事だね」
なんとも涙を誘う悲恋だねぇ、と締めくくった元就の話に、半兵衛は声を上げて笑った。
珍しく女装について言われたのに突っかからないのは、それよりも解釈についての可笑しさが勝ったのだろう。
官兵衛は顔を顰めて元就を見やるばかりである。
「元就公には敵わないなぁ」
「解釈に多少の誤差はあるが、推理力は認めよう」
「まだまだ、私も捨てたものじゃないだろう?」
珍しく官兵衛からも褒め言葉を貰い、元就は穏やかに微笑んだ。
「あ、ついでにその件に関連するんだけど…」
元就は思い出しざまに、手近にあった著作を半兵衛に渡す。
まだ新しい紙で綴じられたその一冊には『有岡許婚物語』と記されている。
「…もしかして、俺と官兵衛殿の話?」
「そうだよ。この時は想像の範囲内だったから、色々と濁してあるけど」
半兵衛が一通り目を通す傍で、流石に気になったのか官兵衛までそれを覗く。
実名こそ避けてあるが、半兵衛と官兵衛を知るものならばすぐに思い当たる程度には描写がされている。
しかも歴史書では無いとの注意書きのとおり、色添えした文章によってまさに悲恋物語のような読み物となっていた。
「みんなが『有岡で不手際をしてしまったのでは』と不安がっていたものだから、分かり易く物語りにして説明してみたんだ」
これが意外と女中さんの間で人気になってしまってねぇ、と和やかに微笑む元就。
どうりで毛利家での女中の態度が妙な訳だ、と二人は納得した。
冒頭での不可解な応援もきっとこの物語によるものだろう。
「うわ…俺って健気!官兵衛殿もこんな風に情熱的に喜んでくれたら面白かったのにー」
「…卿は、歴史家ではなく小説家になってはどうだ」
存外楽しんでいる二人を見て、「こんなに著書で喜ばれたのは初めてだなぁ…」と元就は寂しそうに笑った。
「ところで、許婚の件は否定しないのかい?」
「許婚どころか、俺たち将来を誓い合った仲だもんねー?」
「…誤解を生む言い回しをするな」
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