ある日、ねねが十にも満たぬであろう少年を屋敷に連れてきた。
その少年に見覚えは無いが、どことなく見知った雰囲気を感じ取り「半兵衛の親戚筋ですか?」と問うて見た。
するとねねは困ったように笑い「この通り、半兵衛が小さくなっちゃったから、戻るまで頼んだよ。官兵衛」とだけ言い残して去っていった。
何かの冗談か比喩であろうか、と頭を悩ませたが、結局意図はつかめぬままであった。
兎に角、この少年をしばらく預かれ、ということのようだ。
置き去りにされた少年は、風のように去っていったねねを見送り、そして怯えたように此方を見上げた。
そうして瞬く間にその大きめの瞳を濡らし、零れるほどに涙を流し始めた。
突然の出来事に、こちらとしてもただ対応に困るばかりである。
自身の容姿に人が怯えるのは珍しくない。ゆえに人に任せようかとも思ったが、諦めた。
この日に限って、屋敷には客分の世話に適任の者が居なかったのだ。
「私は黒田官兵衛。卿の名を聞こう」
「…ぐすっ、…たけなか、はんべ、え、です」
涙交じりの返答を聞き、どうしたものかと困り果てた。
ねねと本人の証言からすれば、この泣きじゃくる少年は『竹中半兵衛』ということになるのだ。
知らぬ顔と呼ばれる前は泣きっ面と揶揄されていたのだ、と本人から聞かされた
のは記憶に新しい。
自分の持ちうる知らぬ顔以前の情報は乏しく、人を食ったような身振りをする半兵衛の印象を焼き付けられた今となっては、感情に任せて滂沱したという姿は想像の範疇を越えた。
疑心に満ちた視線で見やると、半兵衛は面白そうに笑った。
「本当だよ!知らぬ顔ーって呼ばれるまでに、結構苦労してるんだよ。俺も」
その時は話半分に聞き流していたが、なるほど、泣きっ面とはこのような姿なのか。
こうやって本題からそれていこうとする思考を誰が責められよう。
だが、冷静な部分では『どうせおねね様の忍術とやらの影響だろう』と当たりをつけていた。
どの道、厄介ごとを押し付けられたことに変わりは無いのだが。
水に濡らした手拭を渡してやると、半兵衛はまだ怯えた様子でそれを受け取る。
稲葉山城での初対面ではこちらを挑発する余裕すら見せたというのに、
十年あまりで人はかくも変わるものなのかと感心する。
「半兵衛よ…なぜ、泣く」
もう随分と涙を流し続けている。これでは顔が腫れて酷い事になるだろう。
声をかけると、半兵衛はなぜか今にも殺されるのでは、というほど必死な顔になった。
あの知らぬ顔がこのような表情をするのを見たことが無いので、本当に本人なのか疑わしくなってくる。
「申し訳ありません…!お許しを、黒田様!」
叫ぶように吐き出されたのは聞き覚えのある声音、だがその悲痛な叫びは酷く心地の悪いものだった。
思わず顔を顰め、この年頃では致し方ないのだろうかと思案する。
「卿に畏まられては落ち着かぬ。様も要らぬ。…『対等』だと言ったのは、卿だ」
努めて穏やかな声になるように静かに、たしなめる様に言葉を紡ぐ。
これ以上心臓に悪いものを見せないで貰いたい。
面影のある見上げる泣き顔を見ていられなくなり、目をそらす。
ふと、部屋に掛けてあった上着を見つけた。
あの華やかで軽やかな着物は、確か半兵衛が忘れていったものだ。
それを手に取り、泣き顔の半兵衛の頭にかぶせる。
半兵衛は身を竦ませたが、滑り落ちるそれを掻き抱いた。
泣きっ面は収まり、少しだけ腫れぼったい驚き顔となっている。
「着物がぬれたなら、それを使うが良い。隣室は卿のためのものだ。使え」
「…官兵衛殿、あの」
「夕餉になったら呼ぶ。それまで心を落ち着けよ」
そのまま逃げるようにその場を後にする。
軍議でもないのに、半兵衛よりも自身が饒舌にならざるを得ないこの状況の違和感に、耐え切れなくなったのだ。
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